2012年8月25日土曜日

鼠ヶ関か、念珠ヶ関か

古代から鼠ヶ関の地名は、鼠ヶ関と読むのか、念珠ヶ関と読むのかまちまちで読まれてきた。
 念珠ヶ関と地名に出てくるのは、鎌倉時代、源義経が鼠ヶ関を通過した時、吾妻鑑には念珠ヶ関とある。戦前、町村合併で地名をどうするかで議論された経緯がある。
 最終的には、西田川郡念珠ヶ関村鼠ヶ関とした。その上念珠ヶ関の呼び名はねんじゅせきむら
ねずがせきと読むこととした。

2012年8月19日日曜日

「念珠関」について

 現在は地形も変り往年の風景は見ることもできないが、私が幼少の頃には、鼠ヶ関川河口の山手にあった国鉄の線路脇に「念珠関址」のコンクリート製の大きな標柱が立っていた。その後、線路も移動し温海町により形ばかりの小さな関所公園が造成され、碑はそこに移動された。碑の正面には「史蹟念珠関址」とあり、右側面には「内務省」左側面には「昭和二年三月建説」と刻まれている。また、御番所(近世の藩政時代の関所の名称)の柵門の磯石が、鼠ヶ関川の川端に残っていたのも私は記憶している。

 その関所址(ここでは関所と呼ぶことにする)の入口に温海町が鶴岡市と合併したことにより新設された「鶴岡市教育委員会」による「古代鼠ヶ関」と「近世鼠ヶ関」の解説の碑文がある。
 ここの関所址に建つ碑は、「念珠関」となっておるが、昭和四三年(一九六八)十月、新潟県境一帯の発掘調査により、古代関所址と確認された場所は、「鼠ヶ関」となっており、関所があったから関の地名はよいとしても、地名語源事典(朝倉書房)には、平安後期に「ねずみの関」で見え、その後は、「念種関・念珠関」と記し、江戸期に「鼠ヶ関」とするとある。その語源は「ネスミ(嶺隅)」の意と思われ、山屋根の端の地をいうのであろうとしている。
 上代では蝦夷などと同じく、大和朝廷からみた異民族を「鼠」と称したことが、日本書紀にも出ており、関所が出来た頃は「鼠ヶ関」であり、仏教の伝来によって「念珠関」となったというのが定説のようだ。また、江戸時代には「鼠」の定印を用いていたといわれる。
 関所の創設については明確でなく、幸徳天皇(六五〇~六五四)の頃に造られた都岐沙羅柵が最初ではないかとも言われるが、この柵については、越と出羽の境にあったとは推測されるが、構造、位置など定かではない。(別記「幻の都岐沙羅柵を求めて」参照)
  出羽国が造られた和銅五年頃(七一二)には、国境の要所として関所の形をなしていたようだ。記述として最初にみえるのは「能因歌枕」(十一世紀初)に出羽国の歌枕として「ねずみの関」がある。
 その後、源頼義が阿倍貞任遠征の折、その子源義家はこの鼠ヶ関付近で対戦。今の鼠ヶ関集落の東にある高峰(今は長嶺という)に拠って二年間に亘って激戦をくりかえしたという言い伝えがある。
 東鑑(鎌倉幕府の公式記録)によれば、文治五年(一一八九)七月、源頼朝が陸奥の藤原泰衡を討つ時に、その家臣比企能員、宇佐美実政等越後よりこの関を経て出羽に出でさせたという。
 また、室町時代の作といわれる「義経記」(源義経一代記)には、文治二年(一八六)兄頼朝の追討を逃れて奥州の藤原秀衛を頼って越後から出羽に下る処に「念珠の関守厳しくして通るべき様もなければ………」と念珠関の名がある。このことは歌舞伎「勧進帳」の「安宅関」の名場面として多くの人に知られている。「義経記」によれば、安宅の関は念珠関ということになる。
 古代鼠ヶ関址は、羽越本線鼠ヶ関駅の南二五〇メートルの県境付近、線路を挟む東西の畑と宅地に位置し標高は五メートル位である。
 昭和八年(一九三三)、昭和二六年(一九五六)に発掘調査され、遺構と建物跡が発見されていたが、同四三年(一九六八)に本調査が実施された。調査は隣接す新潟県岩船郡山北町伊呉野にも及んだ。その結果、平安時代から室町時代の関所の一部とされた。一〇世紀から一二世紀初頭の重複した平窯が八基、一〇世紀末葉から一一世紀前半の砂鉄製錬の製鉄跡三基、九世紀末養から一一世紀の土器による製塩跡一基、一一世紀以前の倉庫風の掘立柱建物跡一棟、掘立の丸柱が並列してジグザクに検出され、千鳥式走行とされた柵列跡が発見されている。
須恵器・土師器・円筒形と浅鉢形の製塩土器・珠洲系陶器などを伴出。狭い地域内にこのような多様な機能の遺構が出土したことは、関所の特異な側面を示すものとして注目された。
又、近世「念珠関」は、江戸時代には「鼠ヶ関御番所」と呼ばれていた。その規模は延宝二年(一六七四)や弘化三年(一八四六)の絵図によると、街道に木戸門があり、門に続いて柵が立てられていた。番所の建物は三間(約六メートル)に七間(約一四メートル)平屋建、茅葺で屋内は三室仕切られ、中央が取調室、両側が役人の上番、下番の控室であった.又、この番所は、沖を通る船の監視や港に出入りする船の取り締まりもしていた。番所の建物は廃止後、地主家の住所となり、後に二階を上げるなど改築されたが、階下は昔の面影をとどめている。
 関守は、最上氏時代の慶長年間が、鼠ヶ関の楯主佐藤掃部(かもん)が国境固役に当った。酒井公転封後の寛永五年(一六一一)からも鼠ヶ関組大庄屋となった掃部が、代々上番と沖の口改め役となり、下番は足軽二人がいた。天和二年(一六八二)以後は、藩士が上番となり、掃部は追放者立会見届役となった。(以上、鶴岡市教育委員会建立の「史跡近世念珠関址」の解説文による)
 関所を通るには、関所手形を番所に示して許可を必要とした。しかし遊芸人のような下賤なものは手形がないから、裏道を通過するか、関所はこれを黙認するのが普通であった。この裏道を「ヤッコ道」とか「ホイト道」といっているが、ヤッコは奴であり、ホイトは乞食であるから、下賤者の道路という意味であろう。裏沢から山道を通って早田前沢に抜けるヤッコ道ハ、現在も痕跡が残っているが、いつ頃からあったかは不明である。又、念珠関は里人の説では、三か所にあったというからややこしい。二度移転したことになるが、初めは鼠喰岩附近にあったが、後に浦沢に還されたという。(このことは昭和四三年の発掘調査により確認された)(大島延次郎著「関所その歴史と実態から」参照)
  しかし、この浦沢については、何ら遺跡もなく史料も見あたらないが、私の推定は、在ったとしても期間は短かかったのではないかと思う。この説は、「史蹟念珠関跡について」(五十嵐弥七郎著)から引用している。
 最後に置かれた場所は、現在史蹟の建っている関の場所である。
更に、この関所の名は、「念珠関」か「鼠ヶ関」か、吾妻鑑や義経記には「念種関」とあり、芭蕉の奥の細道には、「鼠ヶ関」と書かれておるなどまちまちですが、内務省は史蹟保存会の研究結果にもとずいて大正一五年(一九二六)念珠関説を採用し、昭和二年(一九二七)三月、念珠関村教育委員会が主催となって「史蹟念珠関址」としコンクリート製の碑を建立した。
 郷土史家・阿部正己氏は、「鼠ヶ関」が先で、「念珠関」は後だと鼠ヶ関説を固執して譲らなかったそうである。
 現在、「古代鼠ヶ関」と「近世鼠ヶ関」でも鼠ヶ関説をとっている。又、大島延次郎氏は、「念珠関の変遷」(東北帝大文化会編「文化」第四巻第十一号別冊昭和十二年十一月)において結論として次のように書かれている。
 「要するに念珠関所の起源は不明である。併し都岐沙羅柵と両立するを見ず而も時代的に見て、これを念珠関所の前身とするも強ち無理であろう。
 果に然りとせば、念珠関所は大和朝廷が蝦夷地経営の目的を以って設置から転じて、行旅者監視の関所として使名を有するやうになったのである。さらば念珠関所は、白河関や菊多関(勿来)と同じく奥羽に於ける関所としての普遍性を賦與せられたので、他の二関と共に「奥の三関」と並び称せられるのも至当である。(原文のまま)

 参考文献
  温海町史 上巻 第一編第二章第六節 十一世紀の鼠ヶ関の関所
  荘内考古学 第九号 特集「古代の鼠ヶ関」 庄内考古学研究会
  社会科教育研究資料 第二集 「郷土めぐり鼠ヶ関・早田」田川学校教育研究会社会科専門部会 昭四一、八、一八
    ・関所 その歴史と実態  大島延次郎  新人物往来社 一九九五
  念珠関所の変遷 大島延次郎 東北帝大文化会編「文化」第四巻第十一号別冊 昭一二、一一
    ・念珠関  山口白雲  念珠関村役場  昭二八、八、二五
    ・史蹟 念珠関跡について  五十嵐弥七郎著

古代から中世の鼠ヶ関

○縄文時代のむかし

 縄文時代というのは七○○○年乃至八○○○年から、下限は紀元二、三世紀ということになっており、それを早期、前期、中期、後期、晩  期の五期に分けている。(中略)荘内からは、まだ早期の土器は発見されていない。前期のものが吹浦から出ており、此の期の末頃のものが、湯田川街道の岡山、羽黒山麓の玉川、川代などから出ている。中期のものは庄内地方で一番多く出ており、後期のものはつまびらかでないが、晩期のものはかなり多い。
 このように遺物、遺跡が山麓地帯にあるということは、当時はそこが最も住みよい所であったことを意味するもので、今日の平野の部分 は人の住民地にはなり得ず、ジメジメした湿地帯か或は沼地であったろうと考えられる。
  温海町地域でも小名部・早田・大岩川・越沢・木野俣・関川・温海川・五十川・戸沢・菅野代など二○か所から縄文式の石器、土器その他の遺物が出土している。
 温海町地域の縄文式遺跡の分布をみると、海岸台地や鼠ヶ関川、小国川、温海川、五十川などの河岸段丘や、山の裾野など、やや高燥な場所に発見されている。水に恵まれ、陽当りがよく、周囲より少し高くなっているような場所が原始人の好んで住居した場所であり、荘内の場合、山寄りの海抜二○メートル位の処に多く発見されているが、温海町の場合、山地であるためか、海抜一○○メートルから二○○メートルが普通で、稀には峠野山遺跡や小名部遺跡のように二百数十メートルの高い処にあるものもある。(温海町史上巻から)
 また、鼠ヶ関は弁天島に向かって延びた二本の砂嘴でトンボロが形成され、中間が鼠ヶ関川で埋め立てられ、現在は水田化されているが、古代の鼠ヶ関川は、新潟県寄りに流れておったとも言い伝えがある。また、元来この地帯は、潟湖であったらしいが、鼠ヶ関川のために埋没されたのであろうか。附近より縄文式、弥生式、祝部式の三種の土器が発見されたとあるが、古代鼠ヶ関の発祥の地と言われている浦沢(裏沢)地区、もつと古くは油沢以外に考えられないが、どの辺なのか判然としない。(長井政太郎著「山形県地誌」)
 出羽地方は、上代に於いて越後地方より文化が侵入し、寧ろ陸奥地方よりも、皇化に俗することが早かった。此の皇化の北進と共に、蝦夷の勢力は次第に北方に移動した。前九年,後三年役等に依りて、上国の武士が戦功の恩賞として、此の地に領土を賜りて入部し、是らの豪族は、平野に拠点をおき農耕を主体として遂次勢力を拡大した。
  越後より鼠ヶ関を経て出羽に入るものは、出羽諸道の内最古のものであろう。
源義経が安宅の関を経て鼠ヶ関より出羽に入り、文治五年(一一八九)源頼朝、奥州征伐の時、比企、宇佐美の諸将は、鼠ヶ関を経て出羽に入るなど中央より出羽に入る主道として盛んに利用された。
 庄内地方は南北東の三方は山岳地であり、西方は日本海のため、その彊城は自ら自然の境界をなしている。即ち南越後界方面は山なみ重畳の地であり、交通路は少なく海岸には鼠ヶ関を通ずる海岸道があり、その東方の山中に通ずる
 越後界の雷峠より関川、木野俣、温海川、菅野代、五十川俣を経て大山に通ずる山道がある。これ等の街道は、何れも険俊なる山地若しくは海岸道で、通過は困難である。加えるに海道は鼠ヶ関の関所があり、山道には小国、木野俣、越沢、温海川、菅の代等の砦塁があり、其の抵抗は庄内平野への侵入が困難である。

 
○要塞たる関所 
鼠ヶ関は、菊多関(勿来関)、白河関とともに古代奥羽の三関として名高い。関所といえば関門を連想し、関門さえあれば、関所の機能は十分という感じもする。ところが古代の関所はそんなに簡単なものではなかった。  記荘内地方と同じく、三方に山がせまり、一方に日本海を開く。このささやかな平地は自然の要害を具備している、うまい所を選んだものである。

◎ここで古代の出羽国成立から中世の主なできごとについて書いてみたい。
○出羽の柵
 斉明天皇の御代に、阿倍比羅夫が蝦夷を征服した(六五八頃)後、蝦夷に備えるため、出羽の柵が築かれた。柵は木をたて廻らしたもので、そのなかに役人、兵士、移住民等が住み、蝦夷の侵略を防いだのである。
 出羽の柵という文字が歴史に初めて見るのは、阿倍平羅夫遠征後五十年の和銅二年(七〇九)で、この年諸国に命じて武器を出羽の柵に送らせたとある。築造の年代も場所も明らかでないが、和銅二年(七○九)以前に造らせたことだけは明らかである。又、この頃は庄内地方を出羽郡と呼んで、越の国の一部分とされていたことから考えて、出羽の柵は庄内地方にあったのであろう。その位置を最上川の南に想定し、西田川郡大山町太平山附近にその遺址があると説いている人もある。当時、最上川を防禦の第一線にして北方の蝦夷を防いだ柵があったのであろう。
 柵内には人民を移住させて、平常は農民として田畑を耕やかさせ、事ある時には兵士として柵を守らせた。
 歴史に残されている出羽の柵への移民は、

和銅七年(七一四)尾張、上野、信濃、越後の民二百戸。
霊亀二年(七一六)陸奥、置賜、最上二郡及び信濃、上野、越後の各百戸合わせて五百戸。
養老元年(七一七)信濃、上野、越前、越後の氏各百戸合わせて四百戸。
養老三年(七一九)東海、東山、北陸三道の氏二百戸。

とあって、和銅二年(七○九)以後、約十年の間に千三百戸の移民が行われたことになる。
このようにして開拓が進むにつれて、中央の威令も段々北方に広がつたとみえ、天平五年(七三二)には、出羽の柵を秋田村高清水に移した。

○奥羽より蝦夷へ
 出羽国が置かれたのは、八世紀の初頭にさかのぼる。律令国家が成立し、その権力がしだいに日本全土に及んで、いわば律令権力の相対的安定期に入っている時点にあっていた。ことに陸奥・東北の蝦夷経路は順調に進んでいたといってよい。

○出羽の国府
 古代には越前から陸奥、北海道に至るまでの日本海沿岸地方を越の国と呼び、出羽地方も越の国の一部となっていた。孝徳天皇の御代に磐舟柵が置かれてから後、朝廷の勢力はだんだん念珠関の北に及び沿岸地方で漁業で生活している人々から郡を置いて治めて欲しいという希望があったので、天武天皇の御代に一郡が設けられた。その郡名は史上には記されていないが、昔の田川郡と考えられる。

○荘園の成立
   生活の苦しさから農民は律令制による口分田を捨て、租税を納めずにすむ貴族や寺院の私有地へ流れこむ者がすくなくなかった。比較的労働力のある農民は、自分で土地を開墾し、墾田永私有地の掟に従って、土地を拡げたり貧民の口分田を併合して所有地を多くしている者も少なくなかった。
 しかし、彼等は墾田の経営にようする資力を貴族とか寺院とか地方豪族とかに求めたので、結局、貴族権門は土地所有者として大をなしていった。こういうふうにして初期の「荘園」は形成された。

○中世の道
 道の歴史は、人類の歴史とともに歩んできた。そしていつの時代もそれぞれの時代の国土思想なりを反映しつつ道は開かれ利用されてきた。
 やがて律令国家の官道として整理された。官道には三〇里(約一六キロ)ごとに駅が設けられたので、その道筋は駅名とその比定地でたどることができる。
 平安時代に入り、律令国家が衰退して官道の維持が困難となってきた。武家・武士が地方で勢力をもつようになり彼らによる道の維持と開発が進む。十一世紀中期におこった中世蝦の乱といってもよい前九年の役、後三年の役を経て奥州平泉に王朝政府に距離をおく藤原政権が誕生した。
 戦国時代になると軍事的必要性からも要地と要地を結ぶ地方道が開発整備された。近世の領内道の多くはこの時代に準備されたといってもよい。越後から庄内に入る堀切峠越の小国街道も、古くから出羽三山の参詣の道であった。
 羽州浜街道として、日本海沿岸沿いに秋田・本庄()・酒田・大山・鼠ヶ関と南下し、越後村山を結ぶが、街道名はその土地から北上するか南下するかで、酒田街道、秋田街道または越後道とも呼ばれた。近世以前には、鎌倉期の奥州合戦の一つの進路となり、戦国期には越後・庄内・由利地方の合戦の道として、また戊辰戦争では軍道として使われた。しかし長い江戸期のこの街道の利用には特徴的なものがいくつかある。
 大名の江戸参勤の道は、一部区間の場合も臨時的で、公的には藩主・役人の領内巡見や、幕府巡検使の通行が主で、宿駅伝馬の定めを残すところはあるが、制度的なものはみられない。主な利用者は旅人であり、塩・魚などの運搬者であった。もちろん北西の強い冬期間の利用は全く不可能で、夏場が中心となる。
 また、この街道には砂丘地があったり、岩石が海岸に突き出た所が所々にあって険路・難所が多い。それらがまた多くの景勝地を生んでいる。訪れた文人が多くその紀行文が豊かであるのもこの街道の特徴というよう。
 それは松尾芭蕉「奥の細道」をはじめ、菅江真澄「秋田のかりね」、橘南渓「東遊記」、古川古松軒「東遊雑記」、伊能忠能「測量日記」などでも知られる。温海から鼠ヶ関までは二里一八町、小岩川までは山寄りの道が多く、小岩川蚊等は、ほとんど海岸線を走る国道と重なっている。  
 鼠ヶ関は古代の奥羽三関の一つとして知られたが、江戸期には庄内藩の五番所の一つで、船改所も置かれていた。ちなみに、この区間に鉄道羽越線が出来るのは大正三年から同十三年、国道七号が完成するのは昭和四十年である。

〇太閤検地
 天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉は、上杉景勝、大谷吉継、木村常陸介をして庄内三郡の検地を命じた。世に太閤検地と呼ばれる中世社会から近世に移る重要な転換期となった事件である。
 検地は土地を測量し、生産性を定め、耕作者を明確にし、年貢の賦課、家臣に対する知行の支給、軍役の割り当ての基礎とするものであった。土豪が名士、家人に耗作させ自己の名田として経営してきたものでも、作人名で記帳された者を百姓とし、田地に対して知行権を持つ武士とは分離した。また、従来荘園領主の所有地と国衛領とが入り混じっていた所では集落毎に検地して、それぞれの集落居住者の持っている検地帳に登録し、それをその村の田地とし、村の範囲を定めたのである。
   今次の検地は、田制の大変革にして、従来田畑の計算は、方六尺三寸、六尺二寸五分を以て一歩とするなど一定せず、又一反も四二〇歩、三六〇歩、二五〇歩等ありしを、秀吉は曲尺方六尺三寸を以て一歩、三〇歩を一畝、三○○歩を一反、一○反を一町とし、且田畑の等級を定め、従来の貫高を廃して石高となし、等級に応じて石盛を付し、上田は一石五斗乃至一石七斗、中田は一石三斗乃至一石四斗、下田は八斗乃至一石と為せり。税率は一公三民とす。但し、庄内は金納にして上田二○○文、中田一八○文、下田一五○文なり。(庄内経済年表)

 参考文献
  ・温海町史 上巻
  ・庄内の歴史   荘内観光協会
  ・新訂・山形県地誌  長井政太郎  中央書院
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親鸞聖人と鼠ヶ関

  来る平成二二年(二〇一一)は、親鸞聖人七百五十回大遠忌にあたるそうである。
  私は今年五月、東京、築地本願寺を参拝し、日本橋三越本店での『親鸞』展を見学する機会があった。
 親鸞(一一七三―一二六二)と言えば、中世の鎌倉期の浄土真宗の開祖として法然に師事し、専修念仏に帰依し、九〇歳にて没する迄その生涯は「悪人正機説」などの独自の信仰境地を開拓、仏教界に大きな影響を与えたことで知られている。
 昨年、作家五木寛之さんによる「親鸞」上、下巻が刊行され、私はむさぶるように二日間で読み終えた。発刊前にも山形新聞に連載小説として発表されておったので、断片的には読んでおったが、五木さんの小説は、親鸞の若き日の姿を描いたものであるが、本稿を書いた目的は他にあるので、読書感などは機会があったら書いてみたい。
 さて、前文が長くなったが、鼠ヶ関の関集落に富樫藤左エ門という旧家がある。鼠ヶ関、曹源寺の由来によれば、のち江戸藩政時代に山浜組鼠ヶ関の大庄屋佐藤氏の先祖が、前九年の役(一〇五一―六二)後、源義家が裏沢に住んでおった佐藤氏をして両軍戦死英霊の追善供を営まんが為、墓地を造りて堂宇を建立したのが曹源寺のなり始めという。従来油沢にありし堂宇も冬期等、甚だ不便を感じ裏沢に移したと言う。貞永(一二三二)、天福(一二三三)時代より地名裏沢と称する所に住する者次第に増加したとある。
 その当時、堂宇の近隣に住む富樫某なるものに正喜()年間(曹源寺の由来にある正喜年間は年号にはない)に親鸞聖人が滞留し、そのとき「阿弥陀佛」の墨絵を画かれ、今以て富樫藤左ェ門家の家宝として仏間に安置されている。
 そこで、果たして親鸞聖人は鼠ヶ関に来たのであろうか。いろいろの疑問が生ずるのである。
親鸞聖人は、建暦元(一二一一)年一一月、流罪を許されても京都に帰らず、越後に約二年とどまった。しからば親鸞聖人の越後での生活はどのようなものであったか。当時、越後は遠流の地であり、親鸞は重刑であったとみるべきか、しかし実際には中流であったとも言われている。中流であったからこそ、後に念仏弘通(ねんぶつぐつう)の許可が下りたのだとも言われている。承元元年(一二〇七)一月、親鸞の流罪は免れぬと察知した日野宗業(親鸞の叔父であり、幼少の頃の学問の師)は、進んで越後権介を拝命、翌年越後介となり、四年間存任した。親鸞の流刑地が余りひどいことにならぬようにとの配意からであった。
 当時の刑法では、流刑地で妻子ある者は共に流刑地に赴くのが原則であったようであるが、何分親鸞配流の時は、まだ生後一年に満たない幼子があり、流刑地での生活の様子も明らかでないことから妻子の長途の旅は危険とのことで、一年おくれての越後国府の親鸞の庵舎での合流となった。
 越後での親鸞の住んだところは、「拾遺古徳伝」(「真宗史料集成」一所載)には「越後国々府」とある。国府の現在地については諸説があって定かでない。流刑地での生活はさして束縛はなく、決められた流刑地の外には出られないこと、罰せられた悪行を再びやらないこと程度で、生活はかなり自由なようであった。そして文化人の流刑者は、時に例外はあるにしても概して地方では歓迎されたようである。
 承元三年(一二〇九)九月、三七歳のとき刑期も半ばの頃、念仏弘通(ぐづう)の許可が下り、蒲原地方に向け、布教のため国府を旅立たれたという。梅護寺(京ケ瀬)の寺伝によれば、承元三年(一二〇九)十一月末から翌承元四年(一二一〇五月まで御逗留になられたという。しからば妻と幼子を国府(直江津)に残して自由の身となった親鸞聖人はどこに行かれたのであろうか。各地に残る伝説や寺伝などによると、やはり蒲原地方に旅立たれたことは確かなようである。
 そこで、親鸞聖人はいつ頃鼠ヶ関に来られたのであろうか。当時の鼠ヶ関はどのような状況であったか。昭和四十三年による「鼠ヶ関遺跡発掘調査」により現在の新潟県境付近に平安中後期の鼠ヶ関関戸集落址があったことが確認されておるが、多くの住民は裏沢の山奥の地に住居があったと伝えられており、当時は堂宇こそあったが、寺院などなかったのではないかと思われる。ちなみに現在、関集落にある瑞芳院(現在曹洞宗)の前身は「真言宗」であったと言い伝えられている。
 蒲原地方の各地には、滞留された年数が寺伝として伝えられておるが、余りあてにはならないようである。親鸞聖人の正式の勅免通知は、建暦元年(一二一一)十一月十一日で親鸞聖人三九歳の時であった。ところが直ちに京に上がることなく(それにはいろいろと理由があるのであるが)その後二年間越後に在住し、この時期の親鸞聖人の布教は、越後が中心であり、思いの外大きな成果を上げたと伝えられておる。
 前にも書いたことと重複するが、親鸞聖人が直江津(上越市)に来られたのは承元元年(一二〇七)三月で、二年半後の承元三年(一二〇九)九月に念仏弘通の許可(梅護寺の寺伝による)が下り、初めて行動の自由と、布教の自由が認められたと言う。しからば鼠ヶ関に来られたのは、この越後での前半の布教か、それとも勅免後に越後に留まった後半の二年間であったか、なかなか分からないのである。ただ蒲原地方に残る各地の寺伝によれば、念仏弘通の許可が下りた年は、承元三年三月九日であったと言うから、弘通の許可が下りて間もなく、直江津の国府を発たれ越後の布教活動の始まりであったことは確かである。旅の途中勅免通知を受けた親鸞聖人は、付き添えの僧や使者たち数人で、急ぎ直江津の国府に帰られたのではないか。
 親鸞聖人ほど自己について語られなかった方も少ないと言われ、著作のなかでも自己の素性をほとんど語っていないが、しかし後になって妻恵信尼の手紙の発見や、奇跡的な伝説は数多く残されており、この伝説は聖者親鸞としての非凡性あるいは超人性を力説するものであり、多くの門真徒に信仰されてきた。
 富樫家に伝わる阿弥陀仏の墨絵は、年数も経っており保存状態もよくないので、真偽は確かめることはできないが、家宝として信仰しておれば、それでよいのではないかと思う。
    平成二二年五月吉日     記す


参考文献

    親鸞の生涯     松本章男      大法輪閣
    親鸞読み解き事典            柏書房
    親鸞聖人  その教えと生涯に学ぶ    本願寺出版社
    歴史のなかの親鸞  西本願寺教学振興委員会編 筑摩書房
    新潟県史  通史編 二 中世      新潟市
    上越市史  普及版           上越市
    親鸞と恵信尼              自然社出版
    親鸞聖人と越後 一、二、三 東城時文  自費出版
    越後の親鸞―史蹟と伝説の旅―  大場厚順 新潟日報事業社

仏教の伝播

  現在、鼠ヶ関には三つのお寺がある。
 日本の仏教が、インドから西域、中国、さらに朝鮮という仏教東漸の永い歴史の果てに現在ある訳であるが、しからば鼠ヶ関にはいつ頃からどのように入ってきたかを考察してみたい。
 日本人の伝統的宗教心情の素地となった弥生時代、日本列島は昼なお暗き原始林におおわれ、その間をぬって幾条もの川が流れ、荒々しい野獣が跋扈していた。
 仏教伝来期のわが国の信仰の大勢が、いまだ自然神崇拝の段階であったなかで、人間を襲う疫病や自然災害をカミの祟りとする考えは古くからあった。このいっぽうで、祖先神の信仰がようやく発達しはじめていたのである。
 さて、鼠ヶ関についてであるが、古代鼠ヶ関には住居跡が二か所あったと伝えられている。昭和二六年、四三年の二回にわたる発掘調査により明らかになった古代原海の住居跡と、古くから関集落の発祥の地と伝えられている裏沢(浦沢)地区のことである。
 関の瑞芳院の縁起によれば、天徳年間(九五七~九六〇)、攝津の国から来た一老僧が石燈山に草庵を結び、薬師如来を本尊とし、真言宗に属していたが、永仁五年(一二九七)薬師寺浦沢に移り、天正二年(一五七四)新屋四郎右ェ門と関屋八郎右ェ門の両家が、新関因幡守久正の祈願所として創立したと伝えられる。
(現在、瑞芳院本堂脇にある阿弥陀如来像が真宗の証であろうか)
 一方、曹源寺の縁起によれば、大和国葛城山の役小角上人が白雉年間(六五〇~六五四)北国巡遊の砌、難船して当浜に漂流し蓬莱山に庵を結び、仏像経巻を埋め塚となし、行方を修したと伝えられる。(以上、温海町史上巻第五章 宗教と芸能から)
 また、曹源寺由来によれば、のち江戸藩政時代に山濱組鼠ヶ関の大庄屋佐藤氏の先祖が、前九年の役(一〇五一~六二)後、源義家が裏沢に住んでおった佐藤氏をして両軍戦死英霊の追善供を営まんが為、墓地を造りて堂宇を建立したのが当寺のなり始めと言う。従来油沢にありし堂宇も冬期等、甚だ不便を感じ裏沢に移したと言う。貞永(一二三二)、天福(一二三三)時代より地名裏沢と称す所に住する者次第に増加する。その当時、堂宇の近隣に住む富樫某なる者に正嘉年間(一二五七~一二五八)親鸞上人が、滞留せり。その時阿弥陀仏の墨画を書かれ今以て関の富樫藤左エ門家の家宝として仏間に安置してある。
 この頃、弘安(一二七八~一二八七)、正応(一二八八~一二九二)の頃より当地雨量多く数々洪水が起きて、土砂が河川によって流失し、海辺に残り原野となり今の水田となった。
 応仁(一四六七~一四六八)、文明(一四六九~一四八六)時代に、裏沢に住んでおった者たちもおいおい横地の現在の地に移り住む者が多くなった。曹源寺も現在の地に庵室となりて移ったとされる。
 その後、近世の江戸時代になると、幕藩領主がキリスト教徒禁圧のため、寺と檀家の間で契約を結ばせた関係が檀家制度であった。
 また、寺院の本寺、末寺の関係が強調されてくると、当然のことながら本寺による末寺の獲得競争が強力に展開されるようになった。特に曹洞宗の勢力の拡大には道元亡き後の四世瑩山紹瑾は総持寺を建て教団を拡充し、十五~十六世紀には全国的に普及した。つまり布教活動によるところが大きかった。
 旧温海町の寺院二五か寺のうち二三か寺が曹洞宗である。
奥羽地方に曹洞宗を開創したのは羽前玉川寺の(羽黒町)の了然法明であると言われている。慶長三年(一二五一)玉川寺を開創した。
 後世、瑞芳院の本寺である鶴岡の般若寺も田川郡下に広まった十数か寺の一寺であった。
 ここで瑞芳院と曹現寺はどちらが早く開創したかと言うことであるが、曹洞宗荘内寺院歴代和尚傳燈史録(昭和五六年一月二六日発行)によれば、

        開創年代               本寺名・開山
  瑞芳院  慶長六年(一六〇一)   般若寺 三世日峯見昨    
  曹源寺  天和二年(一六一二)      禅源寺 五世即殿全堯

これからみると、両寺とも中世の終わりから近世にかけて創設したものと思われる。又、般若寺の明細帳(由緒書)によると三世の見昨が開いたのは六ケ寺で、そのうちの鼠ヶ関にある瑞芳院は元和三年(一六一七)三月の建立で、檀家は五八軒、境内地十六坪は年貢米で玄米六升を納付したとある。
 日蓮宗である善住寺については、明治三七年興屋地内孝海山と称する砂山に日蓮宗教会所を設置したのが始まりであり、大正二年現在地に移り、昭和二年金剛山善住寺として認可されたとある。(温海町史上巻)

    平成二一年一二月一二日     記す

 参考文献  温海町史上巻 第五章 宗教と芸能 曹洞宗の伝播
 日本仏教史  古代、中世、近世   吉川弘文館刊
     曹源寺由来について  二八世  天外龍見発行  
                   曹洞宗荘内寺院歴代和尚傳燈史録
     大宝山・般若寺の歴史   戸川安章著