2012年8月19日日曜日

幻の都岐沙羅柵について

 鼠ヶ関の歴史を書き始めるにあたり、まづ最初につきあたるのが古代の鼠ヶ関に都岐沙羅柵はあったかということである。
 私が、姫路独協大学教授 吉田金彦氏(日本語語源学会主宰)が、現地調査に来られた時、鼠ヶ関を案内したのは一九九六年九月であった。
 吉田教授は、その後「都岐沙羅柵は幻か」というレポートをまとめられて同大学の日本語学研究室発行の「語源研究室三〇号」に掲載されているが、以下その内容をもとに古代の鼠ヶ関に都岐沙羅の柵はあったかを考察してみたい。
 「都岐沙羅―この澄んだ音を持つ不思議な四文字は古代、越国の何処かに(越国と特定しておるが、これにはいろいろの説がある)あった柵の名である。いまは柵跡に比定される処もなく、それらしい地名も残っていないので、幻の柵と言われている。
 この都岐沙羅に関する記事は、日本書紀の斉明紀―斉明四年七月の条に、ほんの二行ほど簡潔な漢文で記載されている。そしてそれ以外全くどういう文献にも現われて来ない…………」
 このような書き出しで始まる「幻の都岐沙羅」という冊子を(中条町史編さん資料」第五号平成三年一月)吉田教授が手にしたのは平成六年九月二十二日とある。
 吉田教授は、ツキサラの音の美しさ、意味への魅力、歴史への興味に駆り立てられ、以来ツキサラはわが国語の問題でもあると心に懸けたとレポートに書かれている。
 角川地名大辞典では、ツキサラ柵は山形県で扱い、温海町の鼠ヶ関だとしているし、吉田東伍博士の大日本地名辞書で三回ツキサラに触れ、不明だとしながらも淳足・磐船・出羽三柵の温海一線上にありとして念珠関(ねずがせき)を比定している。柏書房の古代歴史地図などにもその位置に記入してあり、東北地方の資料の表示パネル等にも念珠関の所に標示してある。
 しかし国史(日本史)辞典等には「都岐沙羅」の立項さえ欠けている。忘れたのか、忘れられたのか分からないか、柵は蝦夷防御と政庁をかねた古代東北の重要な政府施設で、いい加減にはできない。
 〇鼠ヶ関はツキサラの柵跡であったか
 「都岐沙羅柵が、もし鼠ヶ関に在ったとすれば、在って悪いわけではない。ただ調べれば調べるほど現出してくる筈の整合性が、いまのところ私には感じられない」と言われる前出の小野さんは、大化の時での鼠ヶ関は具体的事実としては疑問だとされている。九〇ページに及ぶ小野さんのツキサラへの情熱のこもったレポ―トは、今までの大家たちが不安を覚えながらも比定された鼠ヶ関がやはり否定されている。
 吉田教授は、鼠ヶ関の調査に先立ち、前の温海町文化財保護委員長の佐藤光民氏を訪ね、古代鼠ヶ関址及び関戸生産遺跡の発掘の経過をお聞きし、その県境地こそが海岸でもあり有望だと思われたが、佐藤光民氏の報告によると無理であるらしい。(「鼠ヶ関の関所址と念珠関村をめぐって」)「郷土温海」九号、昭和四八年七月)
  明治五年まで置かれた字関にあった関所は、近世の関所跡である。古代の関所は県境の鼠喰岩付近にあったという伝承では場所が異なる。
 古代鼠ヶ関址の発掘は、昭和四三年に行われ、そこで古代製鉄、製塩、平窯址であり、柵列や建物址が発見されたのだが、平安中期から末期ないし鎌倉初期まで、飛鳥・奈良時代には遡れないということが明白となり、小野さんのいわれるとおりだった。
 鼠ヶ関調査後、温海町史上巻にある「木野俣説」についても、吉田教授は当初、越の国から最初鼠ヶ関に来て木野俣に入ったものと思われ、どちらにも柵はあったとの見解であったが、レポートでは、念珠ケ関の方が海船利用に便で
木野俣よりはるかに合理的であるとしている。また、鼠ヶ関の場合は、柵と共に製鉄の供給基地の役割も大きかったのではないかとしている。更に鼠ヶ関周辺の温海町域にツキサラに関する地名を調査してみたが、見当らなかったとしている。
 〇ツキサラの柵跡は、越後以北の海岸にある。
 上記小野まつえさんの最も力の入れられた旧、紫雲寺潟近辺については、現在の地形からすれば、とても想像できないが、私も一度胎内川流域や、その南の築地村周辺を訪ねてみたが、分かる筈はなかった。
 ただ言えることは、淳足・磐舟・都岐沙羅と並べられるほどの柵であるから、ツキサラをその中間に求めるよりも、淳足よりも南か、磐舟より北のこの両柵以遠の地に求めるべきであろうというのが吉田教授の見解である。
 以南は柵の可能性のない地域であるから以北しかない。そうすると磐舟から約四二キロ北の鼠ヶ関は距離的に最も好ましい距離なのである。
 ともに水柵と考えられる淳足―磐舟間は約四五キロあり、鼠ヶ関―磐舟間と等距離にある。しかし、鼠ヶ関は地名と今までの遺跡発掘からはツキサラには
結びつかなかった。
 〇ツキサラの柵は出羽建国事情と関わっている。
 出羽柵は一ヶ所ではない。南は酒田市周辺の庄内平野から、北は秋田市付近まで及んだという。そこに出羽建国後の政情に応じた変遷移動があったのである。しかも文献に一度しか記されることのなかった水柵であるとするならば、現在の秋田県海岸、かっての羽後海岸にツキに因む要害の地はないものであろうか。吉田教授は、語源の発想からツキサラを象潟にしているのである。
 象潟は文化元年(一八〇四)マグニチュード七、一の震度の象潟大地震によって大災害が生じ、土地は一、八メートルを隆起し陸化した。(象潟町)
 鳥海山噴火は、六―七世紀初頭の四〇〇年間で一一回、地震も数回記録されている。陸化以前は、災害変動うけながらも古象潟湖は、海水と淡水の入り混じる汽水湖としており、さかのぼって斉明紀四年(六五八)四月船師一八〇艘を
率いた阿倍臣が、鍔田、淳足、男荷(男鹿)平定に赴いており、淳足郡や津軽郡の大領以下を褒賞している中に淳足柵とならんでそれ以上の授位をツキサラの
柵造りに与えている。その前、斉明紀元年(六五五)には、百済の調師一五〇人に饗応した時、柵養(きかう)の蝦夷九人、津軽の蝦夷六人に冠二階を授けているのであるが、この柵養は、淳足や磐舟が考えられるのだが、ツキサラもあったと思われる。そうすると位置関係からしてもツキサラは象潟の位置に最もかなう所にある。「象潟のキサはツキサラにさかのぼる」と国語上の合致点があったからであるとしている。(中略)キサ潟はツキ潟ノ略でもあり、ツキサ潟のツキは、今問題となっているツキサラに遡るという変遷があることなのだ。斉明時代のキサ潟は、ツキサラ潟としてあったと考えられる。以上が吉田教授の見解であった。
 私の推察では、都岐沙羅は正規の城柵である。従って多くの柵戸が常駐したことになる。阿倍臣の作戦は、一八〇艘の大船団を率いて一気に北上、日本海
沿岸の蝦夷軍が拠点とする鰐田、淳代、津軽を海上から圧倒的な軍事力を見せつけ屈服させ、一方では懐柔策をとり帰順させている。大和政権軍は日本海の
利海権を握っている。従って柵戸物資などを陸揚げした港湾が問題となる。
 温海町史にある説にはいろいろと問題があると指摘しておる。
    木野俣説
木野俣の場合は、麻耶山間地で平野地へは遠く、情報収集には全く不便で、荘内地方支配の拠点とする作戦には不可能である。
木野俣の柵跡が同時代の築造なら出羽軍設置の頃か、出羽国の建国前、山地に住む蝦夷の掃討、あるいは帰順をすすめるための拠点としたものであろうという説。―吉田教授の都岐沙羅柵は複数あったという説と合うことにはなるが。
    鼠ヶ関説
大和政権軍の太平洋側、日本海側における城柵の立地が示すように攻める側の城柵は、最前線かその付近に築くのが一般的である。
鼠ヶ関の場合は、平野部に遠く情報吸収に不便で、第一線の城柵を築くような場所とは考えられない。
 阿倍臣が率いる一八〇艘からなる大船団を碇泊させるスペースには極めて狭く、北風と南風には安全といえない港である。淳足柵は信濃川、阿賀野川河口と大潟(現、新潟市大形)、磐舟柵は、荒川河口と磐舟潟(現、村上市)を港にしたと考えられる。
 近年、都岐沙羅柵の比定地として、塩津潟の 北側の築地付近に存在したという説を言いだしたのは前記小野まつえ氏である。しかし、私も都岐沙羅説の南下説には疑問のあるところである。
 結局、鼠ヶ関あたりであろうとする従来一般にいわれてきた説が、最も常識的な判断であろうというのは新野直吉氏である。中世にも名の現われている「念珠関」は、思うにこの柵の後身としての性格をもつものであろう。更にいえば、この地が古代からの伝統で、何らかの防衛施設的役割をもっていたから、白河や勿来とならぶ重要な関がおかれることになったのであろうと言うのである。
 もう一つ、鼠ヶ関は沿岸潮流のため打ち寄せられた三、四メートルの小砂丘の上に発達した漁村で、背後の土地との間に三角形を挟んでいる。元来、この低地帯は潟湖であったらしいが、鼠ヶ関川のために埋没されたのである。この地帯は集落から二、三メートル低く、現在は全部水田化している。(長井政太郎著山形県地誌から)
  もしこの地帯が潟湖であったとすれば、当然状況は変ってくることになるが、いつの頃なのかは分からなく判断はできない。
    大山説
 大山柵跡は、昭和四年太平山北麓の畑中から城柵が発見された。
阿倍臣は数回にわたり蝦夷討伐をしているが、いずれも大船団を率いて海から侵入、内陸へと進攻している。とすると都岐沙羅を築いたときの柵戸、物資などを陸上げした港津が問題となる。
 阿倍臣が率いる越軍(越後の国の成立は、六八九年以降が定説)が、荘内地方の
川南、すなわち最上川の南側の平野部を支配するには、古くから良港といわれる大澗(現、鶴岡市加茂港、顔港ともいった)、泊(現、同市由良港)などに上陸、荘内平野と海岸線を一望できる丘陵(加茂台地)の押さえが戦略的には有利だろう。しかし、ここでも百艘以上の船団をどのように吸容したかが問題である。
 現在の地形からすれば考えられないが、当時の河跡湖(土地・水利)がどのようになっていたかは推論だけである。
 〇むすび
 日本書紀の斉明四年(六五八)の柵造授位の記事は、都岐沙羅柵が史上に現われる唯一の例である。淳足柵から推定して、都岐沙羅と呼ばれた地点に設営された城柵であろう。この柵には、沼垂、岩船といった遺称地がなく、位置や都岐沙羅の意味について次のように諸説がある。
    淳足柵以南説 新日本古典文学大系「日本書記」 岩波書店
    中条町築地説 (新潟県中条町)  伊藤国夫
    磐舟柵説 (新潟県村上市)  村上市歴史散歩 鈴木 三
    鼠ヶ関説 (山形県温海町)  温海町史上巻
    木野俣説    〃      〃
    大山説   (山形県鶴岡市大山都沢)
    最上川河口説 (山形県酒田市)  余目町史・酒田市史・羽黒町史など
    象潟説  (秋田県象潟町)  「都岐沙羅は幻か」 吉田金彦
    築き更説 川崎浩良   tokisar.aの異形とする説
    都岐沙羅を地名アイヌ語小事典 幻の砦、失われた言語(H14.5.17鶴岡工業高等専門学校研究紀要第三六号別冊(H13)大沼浩氏の文から抜粋

結論として、私は新潟県史(通史編、原始・古代)にまとめられている、
―このように律令時代や現在の地名、神社名を手がかりに、ある程度その位置の推定がなされている淳足柵、磐舟柵に対して、都岐沙羅柵は斉明四年(六五八)七月四日条に柵造、判官に対する授位が伝えられている以外、古代資料においても現代の地名においても対応するものが全く見いだせない。このため都岐沙羅柵の所在地に関する諸説にはかなり大きな慰隔がみられる。
したがって都岐沙羅柵の位置については、現在のところ、磐舟以北の日本海
沿岸地域のいずれかとみるのが最も穏当であろう。―
以上が私の「都岐沙羅柵」についてのまとめである。

   参考文献  
    ・都岐沙羅柵は幻か   姫路独協大学教授  吉田金彦
                (語源研究三○号 一九九六、一二、一)

    大和政権/蝦夷/出羽国田川郡/出羽国
    境界と条理制  山形県庄内地方 古代・中世の研究 斎藤勤也
    幻の都岐沙羅柵 小松まつえ 「中条町史編さん資料」 第五号一九九一
     ・高志の城柵   小林昌二   新大人文選書一
    古代新潟の歴史を訪ねる 小林昌二 ブックレット新潟大学三三
    塩津潟は塩の道 塩津潟の由来と都岐沙羅柵 伊藤国夫
    荘内地名のロマンス  大沼浩、大沼裕生共著  鶴岡書店  

平成一六年(二〇○四)一一月   記す

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