2012年8月19日日曜日

親鸞聖人と鼠ヶ関

  来る平成二二年(二〇一一)は、親鸞聖人七百五十回大遠忌にあたるそうである。
  私は今年五月、東京、築地本願寺を参拝し、日本橋三越本店での『親鸞』展を見学する機会があった。
 親鸞(一一七三―一二六二)と言えば、中世の鎌倉期の浄土真宗の開祖として法然に師事し、専修念仏に帰依し、九〇歳にて没する迄その生涯は「悪人正機説」などの独自の信仰境地を開拓、仏教界に大きな影響を与えたことで知られている。
 昨年、作家五木寛之さんによる「親鸞」上、下巻が刊行され、私はむさぶるように二日間で読み終えた。発刊前にも山形新聞に連載小説として発表されておったので、断片的には読んでおったが、五木さんの小説は、親鸞の若き日の姿を描いたものであるが、本稿を書いた目的は他にあるので、読書感などは機会があったら書いてみたい。
 さて、前文が長くなったが、鼠ヶ関の関集落に富樫藤左エ門という旧家がある。鼠ヶ関、曹源寺の由来によれば、のち江戸藩政時代に山浜組鼠ヶ関の大庄屋佐藤氏の先祖が、前九年の役(一〇五一―六二)後、源義家が裏沢に住んでおった佐藤氏をして両軍戦死英霊の追善供を営まんが為、墓地を造りて堂宇を建立したのが曹源寺のなり始めという。従来油沢にありし堂宇も冬期等、甚だ不便を感じ裏沢に移したと言う。貞永(一二三二)、天福(一二三三)時代より地名裏沢と称する所に住する者次第に増加したとある。
 その当時、堂宇の近隣に住む富樫某なるものに正喜()年間(曹源寺の由来にある正喜年間は年号にはない)に親鸞聖人が滞留し、そのとき「阿弥陀佛」の墨絵を画かれ、今以て富樫藤左ェ門家の家宝として仏間に安置されている。
 そこで、果たして親鸞聖人は鼠ヶ関に来たのであろうか。いろいろの疑問が生ずるのである。
親鸞聖人は、建暦元(一二一一)年一一月、流罪を許されても京都に帰らず、越後に約二年とどまった。しからば親鸞聖人の越後での生活はどのようなものであったか。当時、越後は遠流の地であり、親鸞は重刑であったとみるべきか、しかし実際には中流であったとも言われている。中流であったからこそ、後に念仏弘通(ねんぶつぐつう)の許可が下りたのだとも言われている。承元元年(一二〇七)一月、親鸞の流罪は免れぬと察知した日野宗業(親鸞の叔父であり、幼少の頃の学問の師)は、進んで越後権介を拝命、翌年越後介となり、四年間存任した。親鸞の流刑地が余りひどいことにならぬようにとの配意からであった。
 当時の刑法では、流刑地で妻子ある者は共に流刑地に赴くのが原則であったようであるが、何分親鸞配流の時は、まだ生後一年に満たない幼子があり、流刑地での生活の様子も明らかでないことから妻子の長途の旅は危険とのことで、一年おくれての越後国府の親鸞の庵舎での合流となった。
 越後での親鸞の住んだところは、「拾遺古徳伝」(「真宗史料集成」一所載)には「越後国々府」とある。国府の現在地については諸説があって定かでない。流刑地での生活はさして束縛はなく、決められた流刑地の外には出られないこと、罰せられた悪行を再びやらないこと程度で、生活はかなり自由なようであった。そして文化人の流刑者は、時に例外はあるにしても概して地方では歓迎されたようである。
 承元三年(一二〇九)九月、三七歳のとき刑期も半ばの頃、念仏弘通(ぐづう)の許可が下り、蒲原地方に向け、布教のため国府を旅立たれたという。梅護寺(京ケ瀬)の寺伝によれば、承元三年(一二〇九)十一月末から翌承元四年(一二一〇五月まで御逗留になられたという。しからば妻と幼子を国府(直江津)に残して自由の身となった親鸞聖人はどこに行かれたのであろうか。各地に残る伝説や寺伝などによると、やはり蒲原地方に旅立たれたことは確かなようである。
 そこで、親鸞聖人はいつ頃鼠ヶ関に来られたのであろうか。当時の鼠ヶ関はどのような状況であったか。昭和四十三年による「鼠ヶ関遺跡発掘調査」により現在の新潟県境付近に平安中後期の鼠ヶ関関戸集落址があったことが確認されておるが、多くの住民は裏沢の山奥の地に住居があったと伝えられており、当時は堂宇こそあったが、寺院などなかったのではないかと思われる。ちなみに現在、関集落にある瑞芳院(現在曹洞宗)の前身は「真言宗」であったと言い伝えられている。
 蒲原地方の各地には、滞留された年数が寺伝として伝えられておるが、余りあてにはならないようである。親鸞聖人の正式の勅免通知は、建暦元年(一二一一)十一月十一日で親鸞聖人三九歳の時であった。ところが直ちに京に上がることなく(それにはいろいろと理由があるのであるが)その後二年間越後に在住し、この時期の親鸞聖人の布教は、越後が中心であり、思いの外大きな成果を上げたと伝えられておる。
 前にも書いたことと重複するが、親鸞聖人が直江津(上越市)に来られたのは承元元年(一二〇七)三月で、二年半後の承元三年(一二〇九)九月に念仏弘通の許可(梅護寺の寺伝による)が下り、初めて行動の自由と、布教の自由が認められたと言う。しからば鼠ヶ関に来られたのは、この越後での前半の布教か、それとも勅免後に越後に留まった後半の二年間であったか、なかなか分からないのである。ただ蒲原地方に残る各地の寺伝によれば、念仏弘通の許可が下りた年は、承元三年三月九日であったと言うから、弘通の許可が下りて間もなく、直江津の国府を発たれ越後の布教活動の始まりであったことは確かである。旅の途中勅免通知を受けた親鸞聖人は、付き添えの僧や使者たち数人で、急ぎ直江津の国府に帰られたのではないか。
 親鸞聖人ほど自己について語られなかった方も少ないと言われ、著作のなかでも自己の素性をほとんど語っていないが、しかし後になって妻恵信尼の手紙の発見や、奇跡的な伝説は数多く残されており、この伝説は聖者親鸞としての非凡性あるいは超人性を力説するものであり、多くの門真徒に信仰されてきた。
 富樫家に伝わる阿弥陀仏の墨絵は、年数も経っており保存状態もよくないので、真偽は確かめることはできないが、家宝として信仰しておれば、それでよいのではないかと思う。
    平成二二年五月吉日     記す


参考文献

    親鸞の生涯     松本章男      大法輪閣
    親鸞読み解き事典            柏書房
    親鸞聖人  その教えと生涯に学ぶ    本願寺出版社
    歴史のなかの親鸞  西本願寺教学振興委員会編 筑摩書房
    新潟県史  通史編 二 中世      新潟市
    上越市史  普及版           上越市
    親鸞と恵信尼              自然社出版
    親鸞聖人と越後 一、二、三 東城時文  自費出版
    越後の親鸞―史蹟と伝説の旅―  大場厚順 新潟日報事業社

0 件のコメント:

コメントを投稿