2012年8月19日日曜日

中世の鼠ヶ関

  奥羽三関と言われる念珠関が、歴史上に登場し後世に伝えられているのが、源義経が兄頼朝に遂われて、奥州平泉の藤原氏を頼り落ち延びる時に、念珠関を通過したことは、鎌倉幕府の記録「吾妻鑑」にも残されている。
 この念珠(古代では鼠ヶ関と言っておる)はいつごろからあったものであろうか。文化年間、阿部比羅夫が奥羽の蝦夷と戦っていた頃、都岐沙羅柵を所々に造ったが、(設置場所は特定できない)念珠関もその一つではなかったか。(中略)この柵は蝦夷の来襲に備えての城柵の意味もあったので、これを守る関守は少なくはなかったのではなかろうか。そして蝦夷が全く平定されると、今度は行旅人を監視する関所に変わったのは他の関所と同じである。
 武藤藩の頃は、念珠関からは山銭を取り、船番所をおいて入港する船からは津料を徴収し藩の財源としたのである。武藤家が義興の時、最上義光に滅ぼされてから最上家親(義光の子)は家臣の佐藤掃部に念珠関の固役を命じたのであるが、最上家は直ぐに衰え、酒井忠勝が元和八年、荘内へ転封となったので掃部も自然に浪人となったが、寛永五年掃部は酒井家に召抱えられ、鼠ヶ関口御関所上番並び沖の口改役に命じられたのである。この掃部は四代まで続き七十年の間、鼠ヶ関上番となり大庄屋を兼務したことになる。この佐藤家の後は小里善兵エがその後任となった。(中略)
  一方、中世の鼠ヶ関には楯が二カ所にあったとされている。一カ所は『庄内要覧』によれば、「宮ノ沢山」にあったが、「楯主姓名分からず」というが、小国里の云い伝えでは「鼠ヶ関は、小国因幡の家老の楯也」と言う。当時、海岸道は北陸道より奥羽に入る道路ではあったが、岸壁海に迫り村落も狭く軍馬が通るのも困難であった。その為関守もさしたる人数も必要でなく、小国との掛持ちであった。武藤義氏の時代、鼠ヶ関村は小国因幡守の地行地であった。
 もう一カ所は、言い伝えによれば、大庄屋家の後松倉山に在り、新関因幡が楯である。新関因幡守が後年、没落の折、家臣両人を当所留め置いたとある。新屋丑右ェ門・関屋八兵衛である。温海町史では、この新関因幡守と小国因幡と同じであるように書いてあるが、たまたま同名であったため間違われたのであろう。最上家断絶の際に一旦浪人して当所に引っ込み、その後野州古河にて寛永十年代後半に没している。(これまでは没年は寛永十年とされてきたが、近年本間勝喜氏は誤りであったとしておる)その折、所持の田畑を両人に与え、浪人中在任した屋敷跡であると言う。
 ちなみに、平成九年に山形県教育委員会では、県内の中世城館遺跡を調査したが、鼠ヶ関の二カ所については、位置を確認できなかったとしている。

           平成十九年十一月二十三日  記す

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