2012年8月19日日曜日

古代から中世の鼠ヶ関

○縄文時代のむかし

 縄文時代というのは七○○○年乃至八○○○年から、下限は紀元二、三世紀ということになっており、それを早期、前期、中期、後期、晩  期の五期に分けている。(中略)荘内からは、まだ早期の土器は発見されていない。前期のものが吹浦から出ており、此の期の末頃のものが、湯田川街道の岡山、羽黒山麓の玉川、川代などから出ている。中期のものは庄内地方で一番多く出ており、後期のものはつまびらかでないが、晩期のものはかなり多い。
 このように遺物、遺跡が山麓地帯にあるということは、当時はそこが最も住みよい所であったことを意味するもので、今日の平野の部分 は人の住民地にはなり得ず、ジメジメした湿地帯か或は沼地であったろうと考えられる。
  温海町地域でも小名部・早田・大岩川・越沢・木野俣・関川・温海川・五十川・戸沢・菅野代など二○か所から縄文式の石器、土器その他の遺物が出土している。
 温海町地域の縄文式遺跡の分布をみると、海岸台地や鼠ヶ関川、小国川、温海川、五十川などの河岸段丘や、山の裾野など、やや高燥な場所に発見されている。水に恵まれ、陽当りがよく、周囲より少し高くなっているような場所が原始人の好んで住居した場所であり、荘内の場合、山寄りの海抜二○メートル位の処に多く発見されているが、温海町の場合、山地であるためか、海抜一○○メートルから二○○メートルが普通で、稀には峠野山遺跡や小名部遺跡のように二百数十メートルの高い処にあるものもある。(温海町史上巻から)
 また、鼠ヶ関は弁天島に向かって延びた二本の砂嘴でトンボロが形成され、中間が鼠ヶ関川で埋め立てられ、現在は水田化されているが、古代の鼠ヶ関川は、新潟県寄りに流れておったとも言い伝えがある。また、元来この地帯は、潟湖であったらしいが、鼠ヶ関川のために埋没されたのであろうか。附近より縄文式、弥生式、祝部式の三種の土器が発見されたとあるが、古代鼠ヶ関の発祥の地と言われている浦沢(裏沢)地区、もつと古くは油沢以外に考えられないが、どの辺なのか判然としない。(長井政太郎著「山形県地誌」)
 出羽地方は、上代に於いて越後地方より文化が侵入し、寧ろ陸奥地方よりも、皇化に俗することが早かった。此の皇化の北進と共に、蝦夷の勢力は次第に北方に移動した。前九年,後三年役等に依りて、上国の武士が戦功の恩賞として、此の地に領土を賜りて入部し、是らの豪族は、平野に拠点をおき農耕を主体として遂次勢力を拡大した。
  越後より鼠ヶ関を経て出羽に入るものは、出羽諸道の内最古のものであろう。
源義経が安宅の関を経て鼠ヶ関より出羽に入り、文治五年(一一八九)源頼朝、奥州征伐の時、比企、宇佐美の諸将は、鼠ヶ関を経て出羽に入るなど中央より出羽に入る主道として盛んに利用された。
 庄内地方は南北東の三方は山岳地であり、西方は日本海のため、その彊城は自ら自然の境界をなしている。即ち南越後界方面は山なみ重畳の地であり、交通路は少なく海岸には鼠ヶ関を通ずる海岸道があり、その東方の山中に通ずる
 越後界の雷峠より関川、木野俣、温海川、菅野代、五十川俣を経て大山に通ずる山道がある。これ等の街道は、何れも険俊なる山地若しくは海岸道で、通過は困難である。加えるに海道は鼠ヶ関の関所があり、山道には小国、木野俣、越沢、温海川、菅の代等の砦塁があり、其の抵抗は庄内平野への侵入が困難である。

 
○要塞たる関所 
鼠ヶ関は、菊多関(勿来関)、白河関とともに古代奥羽の三関として名高い。関所といえば関門を連想し、関門さえあれば、関所の機能は十分という感じもする。ところが古代の関所はそんなに簡単なものではなかった。  記荘内地方と同じく、三方に山がせまり、一方に日本海を開く。このささやかな平地は自然の要害を具備している、うまい所を選んだものである。

◎ここで古代の出羽国成立から中世の主なできごとについて書いてみたい。
○出羽の柵
 斉明天皇の御代に、阿倍比羅夫が蝦夷を征服した(六五八頃)後、蝦夷に備えるため、出羽の柵が築かれた。柵は木をたて廻らしたもので、そのなかに役人、兵士、移住民等が住み、蝦夷の侵略を防いだのである。
 出羽の柵という文字が歴史に初めて見るのは、阿倍平羅夫遠征後五十年の和銅二年(七〇九)で、この年諸国に命じて武器を出羽の柵に送らせたとある。築造の年代も場所も明らかでないが、和銅二年(七○九)以前に造らせたことだけは明らかである。又、この頃は庄内地方を出羽郡と呼んで、越の国の一部分とされていたことから考えて、出羽の柵は庄内地方にあったのであろう。その位置を最上川の南に想定し、西田川郡大山町太平山附近にその遺址があると説いている人もある。当時、最上川を防禦の第一線にして北方の蝦夷を防いだ柵があったのであろう。
 柵内には人民を移住させて、平常は農民として田畑を耕やかさせ、事ある時には兵士として柵を守らせた。
 歴史に残されている出羽の柵への移民は、

和銅七年(七一四)尾張、上野、信濃、越後の民二百戸。
霊亀二年(七一六)陸奥、置賜、最上二郡及び信濃、上野、越後の各百戸合わせて五百戸。
養老元年(七一七)信濃、上野、越前、越後の氏各百戸合わせて四百戸。
養老三年(七一九)東海、東山、北陸三道の氏二百戸。

とあって、和銅二年(七○九)以後、約十年の間に千三百戸の移民が行われたことになる。
このようにして開拓が進むにつれて、中央の威令も段々北方に広がつたとみえ、天平五年(七三二)には、出羽の柵を秋田村高清水に移した。

○奥羽より蝦夷へ
 出羽国が置かれたのは、八世紀の初頭にさかのぼる。律令国家が成立し、その権力がしだいに日本全土に及んで、いわば律令権力の相対的安定期に入っている時点にあっていた。ことに陸奥・東北の蝦夷経路は順調に進んでいたといってよい。

○出羽の国府
 古代には越前から陸奥、北海道に至るまでの日本海沿岸地方を越の国と呼び、出羽地方も越の国の一部となっていた。孝徳天皇の御代に磐舟柵が置かれてから後、朝廷の勢力はだんだん念珠関の北に及び沿岸地方で漁業で生活している人々から郡を置いて治めて欲しいという希望があったので、天武天皇の御代に一郡が設けられた。その郡名は史上には記されていないが、昔の田川郡と考えられる。

○荘園の成立
   生活の苦しさから農民は律令制による口分田を捨て、租税を納めずにすむ貴族や寺院の私有地へ流れこむ者がすくなくなかった。比較的労働力のある農民は、自分で土地を開墾し、墾田永私有地の掟に従って、土地を拡げたり貧民の口分田を併合して所有地を多くしている者も少なくなかった。
 しかし、彼等は墾田の経営にようする資力を貴族とか寺院とか地方豪族とかに求めたので、結局、貴族権門は土地所有者として大をなしていった。こういうふうにして初期の「荘園」は形成された。

○中世の道
 道の歴史は、人類の歴史とともに歩んできた。そしていつの時代もそれぞれの時代の国土思想なりを反映しつつ道は開かれ利用されてきた。
 やがて律令国家の官道として整理された。官道には三〇里(約一六キロ)ごとに駅が設けられたので、その道筋は駅名とその比定地でたどることができる。
 平安時代に入り、律令国家が衰退して官道の維持が困難となってきた。武家・武士が地方で勢力をもつようになり彼らによる道の維持と開発が進む。十一世紀中期におこった中世蝦の乱といってもよい前九年の役、後三年の役を経て奥州平泉に王朝政府に距離をおく藤原政権が誕生した。
 戦国時代になると軍事的必要性からも要地と要地を結ぶ地方道が開発整備された。近世の領内道の多くはこの時代に準備されたといってもよい。越後から庄内に入る堀切峠越の小国街道も、古くから出羽三山の参詣の道であった。
 羽州浜街道として、日本海沿岸沿いに秋田・本庄()・酒田・大山・鼠ヶ関と南下し、越後村山を結ぶが、街道名はその土地から北上するか南下するかで、酒田街道、秋田街道または越後道とも呼ばれた。近世以前には、鎌倉期の奥州合戦の一つの進路となり、戦国期には越後・庄内・由利地方の合戦の道として、また戊辰戦争では軍道として使われた。しかし長い江戸期のこの街道の利用には特徴的なものがいくつかある。
 大名の江戸参勤の道は、一部区間の場合も臨時的で、公的には藩主・役人の領内巡見や、幕府巡検使の通行が主で、宿駅伝馬の定めを残すところはあるが、制度的なものはみられない。主な利用者は旅人であり、塩・魚などの運搬者であった。もちろん北西の強い冬期間の利用は全く不可能で、夏場が中心となる。
 また、この街道には砂丘地があったり、岩石が海岸に突き出た所が所々にあって険路・難所が多い。それらがまた多くの景勝地を生んでいる。訪れた文人が多くその紀行文が豊かであるのもこの街道の特徴というよう。
 それは松尾芭蕉「奥の細道」をはじめ、菅江真澄「秋田のかりね」、橘南渓「東遊記」、古川古松軒「東遊雑記」、伊能忠能「測量日記」などでも知られる。温海から鼠ヶ関までは二里一八町、小岩川までは山寄りの道が多く、小岩川蚊等は、ほとんど海岸線を走る国道と重なっている。  
 鼠ヶ関は古代の奥羽三関の一つとして知られたが、江戸期には庄内藩の五番所の一つで、船改所も置かれていた。ちなみに、この区間に鉄道羽越線が出来るのは大正三年から同十三年、国道七号が完成するのは昭和四十年である。

〇太閤検地
 天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉は、上杉景勝、大谷吉継、木村常陸介をして庄内三郡の検地を命じた。世に太閤検地と呼ばれる中世社会から近世に移る重要な転換期となった事件である。
 検地は土地を測量し、生産性を定め、耕作者を明確にし、年貢の賦課、家臣に対する知行の支給、軍役の割り当ての基礎とするものであった。土豪が名士、家人に耗作させ自己の名田として経営してきたものでも、作人名で記帳された者を百姓とし、田地に対して知行権を持つ武士とは分離した。また、従来荘園領主の所有地と国衛領とが入り混じっていた所では集落毎に検地して、それぞれの集落居住者の持っている検地帳に登録し、それをその村の田地とし、村の範囲を定めたのである。
   今次の検地は、田制の大変革にして、従来田畑の計算は、方六尺三寸、六尺二寸五分を以て一歩とするなど一定せず、又一反も四二〇歩、三六〇歩、二五〇歩等ありしを、秀吉は曲尺方六尺三寸を以て一歩、三〇歩を一畝、三○○歩を一反、一○反を一町とし、且田畑の等級を定め、従来の貫高を廃して石高となし、等級に応じて石盛を付し、上田は一石五斗乃至一石七斗、中田は一石三斗乃至一石四斗、下田は八斗乃至一石と為せり。税率は一公三民とす。但し、庄内は金納にして上田二○○文、中田一八○文、下田一五○文なり。(庄内経済年表)

 参考文献
  ・温海町史 上巻
  ・庄内の歴史   荘内観光協会
  ・新訂・山形県地誌  長井政太郎  中央書院
                         他   

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