2012年8月19日日曜日

「念珠関」について

 現在は地形も変り往年の風景は見ることもできないが、私が幼少の頃には、鼠ヶ関川河口の山手にあった国鉄の線路脇に「念珠関址」のコンクリート製の大きな標柱が立っていた。その後、線路も移動し温海町により形ばかりの小さな関所公園が造成され、碑はそこに移動された。碑の正面には「史蹟念珠関址」とあり、右側面には「内務省」左側面には「昭和二年三月建説」と刻まれている。また、御番所(近世の藩政時代の関所の名称)の柵門の磯石が、鼠ヶ関川の川端に残っていたのも私は記憶している。

 その関所址(ここでは関所と呼ぶことにする)の入口に温海町が鶴岡市と合併したことにより新設された「鶴岡市教育委員会」による「古代鼠ヶ関」と「近世鼠ヶ関」の解説の碑文がある。
 ここの関所址に建つ碑は、「念珠関」となっておるが、昭和四三年(一九六八)十月、新潟県境一帯の発掘調査により、古代関所址と確認された場所は、「鼠ヶ関」となっており、関所があったから関の地名はよいとしても、地名語源事典(朝倉書房)には、平安後期に「ねずみの関」で見え、その後は、「念種関・念珠関」と記し、江戸期に「鼠ヶ関」とするとある。その語源は「ネスミ(嶺隅)」の意と思われ、山屋根の端の地をいうのであろうとしている。
 上代では蝦夷などと同じく、大和朝廷からみた異民族を「鼠」と称したことが、日本書紀にも出ており、関所が出来た頃は「鼠ヶ関」であり、仏教の伝来によって「念珠関」となったというのが定説のようだ。また、江戸時代には「鼠」の定印を用いていたといわれる。
 関所の創設については明確でなく、幸徳天皇(六五〇~六五四)の頃に造られた都岐沙羅柵が最初ではないかとも言われるが、この柵については、越と出羽の境にあったとは推測されるが、構造、位置など定かではない。(別記「幻の都岐沙羅柵を求めて」参照)
  出羽国が造られた和銅五年頃(七一二)には、国境の要所として関所の形をなしていたようだ。記述として最初にみえるのは「能因歌枕」(十一世紀初)に出羽国の歌枕として「ねずみの関」がある。
 その後、源頼義が阿倍貞任遠征の折、その子源義家はこの鼠ヶ関付近で対戦。今の鼠ヶ関集落の東にある高峰(今は長嶺という)に拠って二年間に亘って激戦をくりかえしたという言い伝えがある。
 東鑑(鎌倉幕府の公式記録)によれば、文治五年(一一八九)七月、源頼朝が陸奥の藤原泰衡を討つ時に、その家臣比企能員、宇佐美実政等越後よりこの関を経て出羽に出でさせたという。
 また、室町時代の作といわれる「義経記」(源義経一代記)には、文治二年(一八六)兄頼朝の追討を逃れて奥州の藤原秀衛を頼って越後から出羽に下る処に「念珠の関守厳しくして通るべき様もなければ………」と念珠関の名がある。このことは歌舞伎「勧進帳」の「安宅関」の名場面として多くの人に知られている。「義経記」によれば、安宅の関は念珠関ということになる。
 古代鼠ヶ関址は、羽越本線鼠ヶ関駅の南二五〇メートルの県境付近、線路を挟む東西の畑と宅地に位置し標高は五メートル位である。
 昭和八年(一九三三)、昭和二六年(一九五六)に発掘調査され、遺構と建物跡が発見されていたが、同四三年(一九六八)に本調査が実施された。調査は隣接す新潟県岩船郡山北町伊呉野にも及んだ。その結果、平安時代から室町時代の関所の一部とされた。一〇世紀から一二世紀初頭の重複した平窯が八基、一〇世紀末葉から一一世紀前半の砂鉄製錬の製鉄跡三基、九世紀末養から一一世紀の土器による製塩跡一基、一一世紀以前の倉庫風の掘立柱建物跡一棟、掘立の丸柱が並列してジグザクに検出され、千鳥式走行とされた柵列跡が発見されている。
須恵器・土師器・円筒形と浅鉢形の製塩土器・珠洲系陶器などを伴出。狭い地域内にこのような多様な機能の遺構が出土したことは、関所の特異な側面を示すものとして注目された。
又、近世「念珠関」は、江戸時代には「鼠ヶ関御番所」と呼ばれていた。その規模は延宝二年(一六七四)や弘化三年(一八四六)の絵図によると、街道に木戸門があり、門に続いて柵が立てられていた。番所の建物は三間(約六メートル)に七間(約一四メートル)平屋建、茅葺で屋内は三室仕切られ、中央が取調室、両側が役人の上番、下番の控室であった.又、この番所は、沖を通る船の監視や港に出入りする船の取り締まりもしていた。番所の建物は廃止後、地主家の住所となり、後に二階を上げるなど改築されたが、階下は昔の面影をとどめている。
 関守は、最上氏時代の慶長年間が、鼠ヶ関の楯主佐藤掃部(かもん)が国境固役に当った。酒井公転封後の寛永五年(一六一一)からも鼠ヶ関組大庄屋となった掃部が、代々上番と沖の口改め役となり、下番は足軽二人がいた。天和二年(一六八二)以後は、藩士が上番となり、掃部は追放者立会見届役となった。(以上、鶴岡市教育委員会建立の「史跡近世念珠関址」の解説文による)
 関所を通るには、関所手形を番所に示して許可を必要とした。しかし遊芸人のような下賤なものは手形がないから、裏道を通過するか、関所はこれを黙認するのが普通であった。この裏道を「ヤッコ道」とか「ホイト道」といっているが、ヤッコは奴であり、ホイトは乞食であるから、下賤者の道路という意味であろう。裏沢から山道を通って早田前沢に抜けるヤッコ道ハ、現在も痕跡が残っているが、いつ頃からあったかは不明である。又、念珠関は里人の説では、三か所にあったというからややこしい。二度移転したことになるが、初めは鼠喰岩附近にあったが、後に浦沢に還されたという。(このことは昭和四三年の発掘調査により確認された)(大島延次郎著「関所その歴史と実態から」参照)
  しかし、この浦沢については、何ら遺跡もなく史料も見あたらないが、私の推定は、在ったとしても期間は短かかったのではないかと思う。この説は、「史蹟念珠関跡について」(五十嵐弥七郎著)から引用している。
 最後に置かれた場所は、現在史蹟の建っている関の場所である。
更に、この関所の名は、「念珠関」か「鼠ヶ関」か、吾妻鑑や義経記には「念種関」とあり、芭蕉の奥の細道には、「鼠ヶ関」と書かれておるなどまちまちですが、内務省は史蹟保存会の研究結果にもとずいて大正一五年(一九二六)念珠関説を採用し、昭和二年(一九二七)三月、念珠関村教育委員会が主催となって「史蹟念珠関址」としコンクリート製の碑を建立した。
 郷土史家・阿部正己氏は、「鼠ヶ関」が先で、「念珠関」は後だと鼠ヶ関説を固執して譲らなかったそうである。
 現在、「古代鼠ヶ関」と「近世鼠ヶ関」でも鼠ヶ関説をとっている。又、大島延次郎氏は、「念珠関の変遷」(東北帝大文化会編「文化」第四巻第十一号別冊昭和十二年十一月)において結論として次のように書かれている。
 「要するに念珠関所の起源は不明である。併し都岐沙羅柵と両立するを見ず而も時代的に見て、これを念珠関所の前身とするも強ち無理であろう。
 果に然りとせば、念珠関所は大和朝廷が蝦夷地経営の目的を以って設置から転じて、行旅者監視の関所として使名を有するやうになったのである。さらば念珠関所は、白河関や菊多関(勿来)と同じく奥羽に於ける関所としての普遍性を賦與せられたので、他の二関と共に「奥の三関」と並び称せられるのも至当である。(原文のまま)

 参考文献
  温海町史 上巻 第一編第二章第六節 十一世紀の鼠ヶ関の関所
  荘内考古学 第九号 特集「古代の鼠ヶ関」 庄内考古学研究会
  社会科教育研究資料 第二集 「郷土めぐり鼠ヶ関・早田」田川学校教育研究会社会科専門部会 昭四一、八、一八
    ・関所 その歴史と実態  大島延次郎  新人物往来社 一九九五
  念珠関所の変遷 大島延次郎 東北帝大文化会編「文化」第四巻第十一号別冊 昭一二、一一
    ・念珠関  山口白雲  念珠関村役場  昭二八、八、二五
    ・史蹟 念珠関跡について  五十嵐弥七郎著

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